誤解の多いMMT理論(現代通貨理論)の本質は、「貨幣とは借用書」と理解すること
誤解の多いMMT理論(現代通貨理論)の本質は、「貨幣とは借用書」と理解すること
誤解の多いMMT理論(現代通貨理論)の本質は、「貨幣とは借用書」
「『国の借金である国債をいくら発行しても財政破綻しない』なんておかしい!」
「『国は、国債を返す必要はない』なんておかしい!」
これは、数年前(2016~2020年頃)、MMT(現代通貨理論)が世間で議論され、MMTについて批判された言葉です。特に財務省や主流派と言われる経済学者が、MMTに強く反発しました。また、マスコミ等で国家予算を家計になぞらえて財政破綻の恐れを訴える報道が相次ぎ、今でも予算編成等で国債の発行量増大を危惧する報道姿勢が強くあります。
MMTは、名前の通り現代通貨に関する理論です。通貨(ここでは、貨幣と同じ意味で使います)には、商品貨幣と信用貨幣とがあります。現代では、金貨銀貨といった商品貨幣ではなく、信用貨幣が使われています。いくら、紙幣やデジタル記録を銀行や政府(日銀)に持っていっても金や銀に代えてはくれません。MMTは、現代の通貨が国家の信用貨幣であることから展開される理論です。金貨や銀貨などの商品貨幣には、流通量に制約があります。これに対して、信用貨幣は、発行量を政府が管理できるという特性があります。そこから、導かれる結論が、「国債(通貨の発行)をいくら増やしても、財政破綻はしない」といったことです。MMTは、ハイパーインフレになるほど国債を出してもいいと言ってはいないのですが、財務省やマスコミでは、「国債をいくら増やしてもいい」という点を強調して、MMT理論を「危うい」と主張しているようです。
MMTの理論の本質は、「信用貨幣とは借用書」と考えることにあります。政府(日銀)が、国債を通して発行する貨幣は、国民に対する借用書です。その借用書が、通貨として回ることで経済活動がなされています。政府が、国民など民間から税金を徴収するということは、借用書を回収することであり、全て回収すると国債はゼロとなりますが、その分民間の貨幣が消滅します。言い替えると国債の発行残高は、民間にある貨幣の量ということです。
MMT理論をどう活用するかは政策の問題ですが、信用通貨を理解する上で、MMT理論は有用であると考えます。この記事では、MMT理論からみた貨幣に関する話をいくつかご紹介します。
英語で紙幣を「note」(ノート)と言う理由
英語で「紙幣」を指す言葉として、英国や英国連邦諸国では、「note」が使われます。メモ帳を意味する「ノート」と同じです。米国では、「bill」が使われますが、こちらもラテン語の「bulla」(封蝋や公式な文書を指す言葉)に由来しています。
英国英語「note」の起源
「Note」(または「banknote」)の起源は、銀行が発行した手形(promissory note)に由来します。歴史的には、銀行が金や銀の預金証明書として「ノート(手形)」を発行し、それが後に紙幣として流通するようになりました。これが現代の「note」という表現につながっています。
「note」が紙幣を意味するようになったエピソードがあります。16世紀のイギリスで金細工師をしていたゴールドスミス(Goldsmith)は、仕事柄金を保管する頑丈な金庫をもっていまいした。当時、金貨や銀貨が流通していましたが、重いことや盗難のリスクがあることから、人々は金をゴールドスミスに預けました。金を預けた顧客には、その金を引き出せる証明として「ゴールドスミス・ノート(goldsmith’s note)」が発行されました。
やがて、客たちは金貨や銀貨を直接使わずとも、ゴールドスミス・ノートのやり取りで取引をするようになります。これにゴールドスミスは目をつけます。彼は、実際に保有している金の数倍ものノートを発行しても問題ないことに気付き実行します。(実際に5倍ほど発行されていたようです。)これが銀行業の原型となり、後に「banknote」(銀行が発行する手形・紙幣)という形に進化しました。そこから、「note(紙幣)」という言葉が出来たと言われています。
この話は、真実がどうかはわかりませんが、信用貨幣の本質をついています。ゴールドスミスのノートは、預り証であったものが、貨幣として利用されています。また、ゴールドスミスは、その信用によって所有している金の量を超えてノートを発行しています。経済用語でいう「信用創造」を行っています。ちなみに「信用創造」の英語は、「Money Creation」で直訳すれば「貨幣の創造」です。
米国英語「bill」の意味
米国で使われる「bill」も、植民地時代に金や銀が不足していたため、各地で銀行や植民地政府が発行する「約束手形(promissory notes)」が元になった言葉です。約束手形は、金や銀に交換可能な証書であり、公式には「手形(bill)」や「note」と呼ばれていました。アメリカ独立後、紙幣が発行されるようになると、その形式は引き続き手形のようなもので、初期の紙幣は「United States Treasury Note」や「Demand Note」という名称で発行されました。一般の人々はこれを「bill」と俗称しました。その後、商取引で使われていた「為替手形」(bill of exchange)に類似していたため、紙幣も自然と「bill」と呼ばれるようになったと言われています。
渋沢栄一が第一国立銀行設立した本当の理由
2024年に新札が発行された1万円札には、日本の資本主義の父と言われる渋沢栄一の肖像が登場し、NHKの大河ドラマに取り上げられるなど、渋沢栄一に関心が寄せられました。
渋沢栄一の業績の一つとして、彼が日本で最初の近代的な銀行である第一国立銀行を1873年(明治6年)設立したことが挙げられます。小説やドラマでは、
「多くの人が資金を出し合い、事業をする人に資金を提供する(貸し付ける)ために銀行を作った」
と語られています。確かにそんな面もあります。これは、設立目的の1つ「預金と貸付」です。しかし、本当の目的は、当時出回っていた様々な紙幣(太政官札、民部省札、大蔵省兌換証券、開拓使兌換証券、官札、藩札等)を整理し、「銀行」という信用によって発行する貨幣によって、経済を安定して発展さることでした。
設立当初、第一国立銀行は、金や銀の裏付けを持つ銀行券を発行しましたが、その後、信用貨幣への移行を目指しました。この点で、渋沢の試みは貨幣の「信用」に基づく近代的なアプローチということになります。
参考資料)南地 伸昭:「国立銀行設立にみるリレーションシップ バンキンゲの原型」
大石内蔵助が行った藩札回収からみる信用貨幣度
「忠臣蔵」に登場する赤穂藩筆頭家老大石内蔵助は、江戸城での主君の刃傷事件により赤穂藩お取り潰しという事態に直面します。まず片づけなくてはならない大きな問題が、藩札の回収でした。赤穂藩では、大量の藩札(年間の経費と同程度)を発行していました。この信用の元になっている藩が、突然つぶれてしまったのですから大混乱です。この問題に対して、内蔵助は藩札と銀との交換を実行します。幸い赤穂藩は、塩の製造販売で蓄えがあり、藩札の額面6割程度で交換できたとのことです。これは、赤穂藩の発行していた藩札が、6割の商品貨幣であり、4割が信用貨幣であったということです。
「質素契約」(緊縮財政)と景気
江戸期を通じて、各藩では赤穂藩と同様に借金や大量の藩札を発行しています。今の日本政府と同じです。どの藩も質素倹約(緊縮財政)で、藩の借金を減らそうとしましたが、うまく行っていません。成功したのは、産業を興したり、密貿易をしたりした藩だけのようです。
江戸幕府も、財政悪化に対して、将軍徳川吉宗や老中水野忠邦が質素倹約を実施します。しかし、デフレとなって米の価格が下がり、財政は好転しません。また、倹約令のお陰で、市中まで景気が悪くなってしまいました。結局、貨幣の改鋳(金の含有率を下げる)によって通貨の流通用を増やして幕府財政も市中の景気も好転しています。
歴史的にみて、貨幣が実質信用通貨になっているのにも関わらず、量的に限りあるものとして中央政府が緊縮財政をとり経済を悪くした例が沢山あります。戦前、「金解禁」と称して、金本位制に戻して景気を更に悪化させた例などです。いずれも、経済規模に対して通貨が不足した例だと考えることができます。
まとめ
経済を健全に発展させるためには、経済規模にあった通貨の流通が必要です。MMT理論は、現代の通貨が信用貨幣であることから、必要な量を政府(中央銀行)がコントロールできると結論付けています。
この30年間、デフレが続いている日本経済は、個人消費や企業投資が低迷しています。この状況を打開するためには、通貨の流通量を増やし、需給ギャップを解消することが望まれます。