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長い会議をやっても「決められない」、日本的な理由とは

 
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長年、大手鉄鋼会社及び関連企業、米国鉄鋼会社に勤務。仕事のテーマは、一貫して生産性の向上。生産部門、開発部門、管理部門、経営部門において活動。何事につけても「改革しよう」が、口癖。日本経営士会会員。 趣味:市民レベルのレガッタ、ゴルフ。

長い会議をやっても「決められない」、日本的な理由とは

 

会議で「決められない」、日本的な理由とは

「町内会の会合」
PTAの会議」
「大学の教授会」
この3つに共通するのは、「決められない会議」の定番ということです。(これは私の経験なので、一般論とは言い難いことをお断りしておきますが。)これらの会議では、誰かがリーダーシップを取ることもなく、制限時間一杯使った挙句、「前回とほぼ同じ」ということで、会議が終わっているのではないでしょか。戦後、日本では「独裁的」と言われるのを極度に恐れ、話し合いをしてもスピーディに「決めること」ができなくなっています。会社のように、上下関係がハッキリしていると、まだ「決めること」ができますが、町内会、PTA、教授会のように明確な上下関係がない会議は、「決めること」が難しいようです。
会社や役所などの組織で、「決められない会議」「決められない経営者や上司」が溢れています。これら「決められない」のには、日本的理由があります。
1)決断の責任者がいない
2)「多数決」が、機能していない
3)意見と人格が分離できない
テキパキと決断する人は、「独裁的」といわれ、日本では受け入れにくいタイプです。戦後は、特に「民主的」な決め方ということで、話し合いで決めることが好まれますが、決断はとかく遅れがちです。日本では、何事においても「決断が遅い」「決め方が曖昧」という指摘は、戦争直後からあります。いや戦争中も決断が速かったとは言えないでしょう。その後、多くのことが欧米的になっていく中、「決められない」ということが、逆に益々強まっています。そこには、「民主的」という言葉の誤解も入っています。
欧米人は、「民主的」だから、責任を持つ人がスピーディに決断します。日本では、「民主的」という蓑に隠れて「決める」ことから逃げているのではないかと思えます。
この記事は、米国と日本の会社に勤務した経験と山本七平、小室直樹著「日本教の社会学」(ビジネス社)を参考に、日本で「決められない」人が多い理由を考えます。


日本教の社会学

 

決断の責任者がいない

イーロン・マスクやジェフ・ベソスといった米国の企業創業者達は、スピーディな決断で会社を牽引しています。創業者でなくても、管理職や役員は、「決断が仕事」という意識があるのか、総じて決断が速いようです。日本でも、創業社長と言わるタイプの社長は、自ら積極的に決断をする方が多いようですが、全体としてみると少数派です。
日本の会社や組織では、決断の主体が誰なのか分からないことが多くあります。また、決断の内容を分散させることが、「民主的」と思われているようです。言い換えると、何もかも自分で決める人は、「ワンマン」とか「独裁的」と言われて敬遠されます。
ある会社で、不振続きの事業を廃止するかどうかの議論がされたことがありました。対象の事業は、この会社の創業期からある伝統ある事業ですが、時代に合わず不振が続いていました。社内の意見は、「事業再建派」と「事業廃止派」とに分かれていました。これに対して現社長は、
「役員の皆さんの意見に従います」
との発言。役員達は、
「最後は、社長にご決断をしていただきたい」
ということで、決まりません。結局、「継続して検討」ということで、なし崩し的に事業継続です。半年後、社長が交代することになりました。社長は、「事業廃止派」の中から次期社長を指名。結局、新体制になった後、新社長が役員時代から事業廃止を主張していたということで、やっと事業廃止が決まるという日本らしい決着でした。
西洋で生まれた民主主義は、「責任者を明確にして決断の主体を明確にした」ところに出発点があります。選挙によって選ばれた人に権限と同時に責任が付与されています。同様に、会社などの組織で地位を得た人には、「権限と責任」が与えられています。
簡単に言えば、「決める権限がある代わりに責任がある」ということです。「責任を取りたくない」気持ちがあるとき、「決められない」のは当然です。

 

「多数決」が、機能していない

意見が分かれたとき、多数決で決めることは、民主主義で行われる方法です。ところが、
「多数決で決めなくてはならない事態を招いた責任」
などと批判されることがあるのが、日本の社会です。こんな批判は、伝統ある組織の会長を決めるといったときに起きます。
西洋的な感覚では、「多数決で決めるとは、無数の意見があるとき、多数決で一つの意見を選択し、全体の主張とすること」です。(山本七平、小室直樹著「日本教の社会学」より)ところが、日本では、様々な意見があるとき、各意見のバランスを取ることが民主主義と思われています。多数決は、やむを得ない手段であり、多数決で決めたとしても、「相手の気持ちを察して、相手が怒らないようにすること」が民主的とされています。
議会などで、多数決を取るとき、「少数意見を尊重せよ」との大合唱が起きます。「多数の横暴」という声も聞きます。そんな声があると、「規定に多数決で決める」とある会議でも、多数決で決めにくいものです。
日本で、会議の運営がうまいとは、「多数決で決める前」に、意見の集約をできる人です。最終的に「多数決」で決めるとしても、誰しもが「多数決に納得する」空気を作り出せる人ということです。

 

意見と人格が分離できない

「優しい役を演じた俳優は、普段も優しい人。」
「悪役を演じた俳優は、普段も悪い人。」
幼い子供は、こう考えてしまいます。結構な大人でも、こんな風に考えてしまう人達も少なくありません。
同様に、議論をする中で、意見と人格とを分離できない人々も多くいます。これでは、理性的な判断はできません。ある人が、正しい意見を発言しても、その人が普段「誠実でない」「自分勝手」といったことがあると、周囲はその意見を受け入れにくいものです。激しく論争して、その後多数決で決まっても「しこり」が残ります。
逆に自分が正しいと思ったことを強く発言することで、会議の議論が激しくなり、挙句に自分に対する他人の感情が変わることを恐れて、口を閉ざすこともあります。
正論をしつこく主張すると、「大人気ない」とか「世間を知らない」と人格を問題にされます。残念ながら、日本では「仕事は出来ないが、いい人」であることが、重要視されます。「決断できない上司」は、明らかに能力的に失格です。ところが、「決断できなくても、いい人」であれば、上司が務まるのです。

まとめ

会社や役所などの組織において、「決められない」のには、日本的な理由があります。
1)決断の責任者がいない
2)「多数決」が、機能していない
3)意見と人格が分離できない
テキパキと決断する人は、「ワンマン」とか「独裁的」といわれ、日本では心情的に受け入れ難いタイプです。しかし、リーダーの立場にある人は、「権限」が与えられています。また同時に「責任」もあり、勇気を持って「決めていく」ことが望まれます。

参考記事:ライバルを一瞬にして葬り去る「レッテル貼り」の怖さと有効活用術

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