「上司と部下」の関係が悪くなるのは、両者で「正しいこと」が異なるから?
「上司と部下」の関係が悪くなるのは、両者で「正しいこと」が異なるから?
「上司と部下」の関係が悪くなる理由
「部下の気持ちがわからない上司」
「無能な上司」
「丸投げする無責任な人」
こんな上司に対する気持ちを部下が持てば、きっと上司とはギクシャクした関係になるでしょう。逆に上司から部下をみた時、
「無能な奴」
「責任感のない部下」
「途中で仕事を放りだす部下」
なんて思っていれば、同様に上司と部下の関係はギクシャクします。上司と部下の関係が悪くなるのは、両者にとって「正しいこと」に違いがあるからです。部下からみれば、上司は「部下の気持ちが分かる人」、「有能な人」、「責任感がある人」でなくてはならないのです。一方、部下からみれば、「それなりの理解力がある」、「責任がある」、「従順で粘り強くなければならない」と思っています。それぞれにとって、それが「正しい」上司であり、「正しい」部下です。なかなか現実には、そう行かないことはわかっていますが、少なくとも「理想」としては、そんな上司や部下の姿を描きたがります。そんな思い込みがあるから、上司と部下はギクシャクした関係が生まれ易いのです。
そもそも「正しい」には、2種類あります。「本当に正しいこと」と「役割として正しい」ことです。
上司と部下の関係は、この「役割として正しい」ことに基づいて、会社システムが成り立っています。これを勘違いすると上司と部下が悪くなるのです。上司は、「役割としての正しいこと」を発動します。つまり、
「上司の命令を実行せよ」
ということです。一方、部下は、「本当に正しいこと」を求めています。だから、
「上司の命令といえども、納得できないことはしたくありません」
となるのです。
会社の組織というものは、上司に能力があるから「上司」なのではありません。「上司」という役目を果たすから「上司」なのです。部下だった時代、能力があるから「上司」になったのでしょうが、上司そのものは「役目」です。「能力がある」とか「特別な偉さ」があるのではなく、あくまで「役目」として「上司」なのです。
「上司と部下」というシステムを「役割として正しいこと」を原則として運営すると、2つのメリットがあります。
1)合意に時間がかからない
2)魂まで屈する必要がない
「本当に正しいこと」を求めるのは、科学の世界です。科学の世界の議論に「上司と部下」のシステムを持ち込んではいけません。かつて、データに基づかず大学の先生の権威、言い換えると「上司と部下」の関係で「正しい」ことが決められ大きな薬害被害になったことがあります。例として、薬害エイズ事件(1980年代)が有名です。
「上司と部下」システムの利点
「上司と部下」の関係を「役割としての正しいこと」を基に運営すると大きく2つのメリットがあります。
1)合意に時間がかからない
上司と部下の関係は、役目として「上司」と「部下」です。意見が割れたら、上司の意見が、「役割として正しい」のです。つまり、なにが「正しいか」を議論するまでもなく、上司の意見に従うシステムです。この仕組みは、合意に時間がかかりません。決定事項に未来など不確定要素を含んでいる場合、そう簡単に正解など得られるものではありません。いくら議論しても、「どちらでもいい」という選択肢が大半です。早く決定して、早く動くことがベストの場合が多いものです。
2)魂まで屈する必要がない
役目として上司であり、部下であると認識すれば、部下の意見が通らなくても「あきらめ」が付きます。「上司がこう決めたのだから仕方ない」と思うことができます。自分の魂まで上司に屈しているわけではないので、自分のプライドが傷つくことはありません。
これは、精神衛生上、部下に対してだけでなく、上司にも楽なことです。部下の世界観、正義まで、説得することは、上司にとって大変な負担です。
私のいた会社では、石炭火力発電所を持っていました。「地球環境には、脱炭素に取り組まなくてはならない」との考えをもつ担当者もいます。こんな部下に対して、上司は「火力発電所の操業を続ける」ことを強いています。一応、なぜ自社が火力発電所の操業を続けるかの説明はしますが、この部下が100%納得している訳ではありません。しかし、役目として、上司は部下に石炭火力発電所の操業維持を命令し、部下も受けています。
「世の中は『脱炭素』だが、会社の命令で石炭火力発電をしている。将来は、知らんけど!」
部下は、こう思って割り切れるのです。本当に「火力発電を受け入れない」との思いが強ければ、上司と部下の関係を精算するために退職することになります。
「これが正しい」と思っていることの正体
「役割として正しいこと」の反対が「本当に正しいこと」です。これもあてにならないものです。かつて、「卵の食べ過ぎはコレステロールを増やすからよくない」などと当時の「科学的根拠」に基づいて言われていましたが、今は完全に否定されています。「本当に正しい」と言いながら、正確には、「これが正しい」と思っているだけかも知れません。
キリスト教徒がイスラム教徒と妥協することは、まずあり得ません。自分たちが「本当に正しい」と思っているからです。東西のカップルが結婚して、雑煮を食べようとして、餅は丸いか四角かで主張しあうこともあります。なぜ、キリスト教が正しいのか、なぜ丸餅が正当かと言われても、答えは「生まれた時からそうだった」と言った根拠ぐらいしか出てきません。生まれたのが、キリスト教の家庭だった、関西の家庭だっただけです。つまり、単に何かのきっかけでそうなっただけです。
よくよく調べると、「卵とコレステロールの関係」について、強い相関があるデータはあいませんでした。単に卵に沢山コレステロールが含まれていることと、血管にコレステロールが溜まると動脈硬化になるという事実だけがありました。動脈硬化になるコレステロールが、食物である卵由来のコレステロールが直接血管に溜まるというデータは、当時もありませんでした。しかし、権威ある人や機関が、「卵の取り過ぎで血管にコレステロールが溜まり動脈硬化になる」と発言し定説化しました。これは、「本当に正しいこと」が、「役割として正しいこと」にかき消された例かもしれません。
「役割として正しい」に身を任せることは、組織人として楽です。しかし、「本当に正しいこと」が必要なことも忘れたくないものです。
まとめ
上司と部下の関係がうまく行かないのは、双方が思っている「正しいこと」に違いがあるからです。部下は、「役目として正しいこと」を押し付け、部下は「本当に正しいこと」を実行したいものです。組織は、「上司と部下」のシステムで運営されています。
「上司と部下」というシステムを「役割として正しいこと」を原則として運営すると、2つのメリットがあります。
1)合意に時間がかからない
2)魂まで屈する必要がない
これを上司と部下が理解することで、関係が悪くなることを防げます。
「本当に正しいこと」を求めるのは、科学の世界です。科学の世界の議論に「上司と部下」のシステムを持ち込んではいけません。